78(4)履修主義・修得主義等を適切に組み合わせる 2 2023/06/14 『○一方で,履修主義や年齢主義は,対象とする集団に対して,ある一定の期間をかけて共通に教育を行う性格を有する。このため修得主義や課程主義のように学習の速度は問われず,ある一定の期間の中で,個々人の成長に必要な時間のかかり方を多様に許容し包含する側面がある一方で,過度の同調性や画一性をもたらすことについての指摘もある。 ○我が国においては現在,制度上は原級留置が想定されているものの,運用としては基本的に年齢主義が採られている。進級や卒業の要件としての課程主義を徹底し,義務教育段階から原級留置を行うことは,児童生徒への負の影響が大きいことや保護者等の関係者の理解が得られないことから受け入れられにくいと考えられる。』 日本の学校教育は、開始時の時代背景から、4月から3月生まれを1学年と規定し、公教育として学年が編成され、年齢主義として、当然落第がなく、個人の修得に関係なく進められてきました。当然そうなると修得や習熟度に差が得てきたが、実はあまりそういったことへの配慮は少なかったのではないだろうか。今、子ども一人一人の人権を考慮すれならば、しっかりと習熟、修得できるよう支援することと意欲があろうとも学べる環境にない状況が生み出されたとしてもしっかりと支援する体制をもっと配慮する必要があるのではと感じます。
俳句3 2023/06/13 17音で「心が上を向く」 夏井さんによると、俳句は「座の文芸」。作るだけではなく、ほかの人と鑑賞し合うことが、俳句の醍醐味です。誰が作ったのかわからない句を味わう句会ライブでは、いろんな人と言葉を交わすことになります。「ここが好き」「ここはよくわからない」といった議論を楽しむようになっていきます。その面白さを知った子たちが、日常生活のコミュニケーションが必要な場面で応用していけるようになる。これもまた俳句の魅力ですね。 もう1つ俳句の“効果”として、ネガティブな感情を和らげる、というものがあると思っています。「人と話すことが怖くて閉じこもっていたけれど、俳句という短い言葉に自分の気持ちを代弁させることで、外の世界とつながることができた」という人に、これまでたくさんお会いしています。 ネガティブな感情を持っている人は、意識が自分の内側に向きがちで「何で私は……」と自分を責めていることが多い。でも、俳句を始めると、「俳句のタネ」を得ようとして、外の世界を観察するようになります。カエルでも何でもいいです。外を見る力がついてくると、自分自身を客観視する力もつき、「あれ、なんでこんな暗い顔をしているんだろう」とふっと気づき、心が救われます。 それに、詠んだ句を新聞や俳句サイトに投句して褒められたりすると、一片のかけらのような承認欲求が満たされ、自己肯定感が高まります。鍛えれば鍛えるほど筋肉がついてくるように、俳句も作れば作るほど上手になって「俳筋力(はいきんりょく)」がついてくる。心の奥底に沈み込んでいた下向きの心が、たった17音で上に向いていく。そういうメカニズムが俳句にはあるのだと思います。そう答えています。 先日、梅ジュースを作って試飲しました。どんな味がしましたか?「甘酸っぱい!」「にがい」「すっぱい」感じたことを言葉にすることから始めたらと思います。もちろん保育園では言葉だけでの表現が難しい段階の子もいます。表情やしぐさを見て、言葉だけでなく体で共感したり、言葉の代弁や引き出すことも必要です。
77(4)履修主義・修得主義等を適切に組み合わせる 2023/06/13 『○現行の日本の学校教育制度では,所定の教育課程を一定年限の間に履修することでもって足りるとする履修主義,履修した内容に照らして一定の学習の実現状況が期待される修得主義,進学・卒業要件として一定年限の在学を要する年齢主義,進学・卒業要件として一定の課程の修了を要求する課程主義の考え方がそれぞれ取り入れられている。 ○修得主義や課程主義は,一定の期間における個々人の学習の状況や成果を問い,それぞれの学習状況に応じた学習内容を提供するという性格を有する。個人の学習状況に着目するため,個に応じた指導,能力別・異年齢編成に対する寛容さという特徴が指摘される一方で,個別での学習が強調された場合,多様な他者との協働を通した社会性の涵養など集団としての教育の在り方が問われる面は少なくなる。』 履修における結果として、当然定期テストなどはこれらも行われるのでしょう。一部の学校では試験の廃止もとりだたされていますが、どれくらいの理解があるかの指標は必要でしょう。ただし、そこには理解する側の課題もありそうです。個に応じた指導、能力別など工夫をして取り組まれるべきでもありますが、学ぶ側が学べる環境、意欲を掻き立てる工夫も必要だと感じています。もちろん学ぶという姿勢も必要です。修得することについても結果として評価されるわけで、一定期間において修得できる度合いにも個人差も出てきますよね。器用さや大人の評価での上手といった評価でも違いが出てきますよね。何れも良し悪しだけでなく、どう取り組んできたかを評価に反映することも必要なことではないのかとも感じます。
76(3)これまでの実践とICTとの最適な組合せを実現する 3 2023/06/12 『○なお,ICTはこれからの学校教育に必要不可欠なものであり,基盤的なツールとして最大限活用していく必要があるが,その活用自体が目的でないことに留意が必要である。 ○AI技術が高度に発達するSociety5.0時代にこそ,教師による対面指導や子供同士による学び合い,地域社会での多様な体験活動の重要性がより一層高まっていくものであり,教師には,ICTも活用しながら,協働的な学びを実現し,多様な他者と共に問題の発見や解決に挑む資質・能力を育成することが求められる。』 このことはとても大切ですね。人と人の対面的な繋がりや対話による共同的な学びは、画面では伝わらないことも多くあります。最大限に活用することと、すべてを頼ってしまうこととは違うように感じています。活用自体が目的ではなく、あくまでもツール。人と人の対面による共鳴、共感でヒトは進化をしてきたことを考えると直接の対面はなくしてはならないことだと思います。
俳句2 2023/06/12 俳句を始めた子どもたちの意外な変化 さらに夏井さんは、学校で俳句の発表の場を設けると、子どもたちにとっていい動機づけになります。いい句を披露して決勝に残りたいとか、先生が学級通信で紹介する優秀な句に選ばれたいとか、そんな気持ちで日常的に「俳句のタネ」を探して、誰かの言葉にアンテナを立て始めるんですね。例えば、算数の授業中に割り算という言葉が出てくると「先生、4音だね」って。先生方からは、集中力が上がった、なぜかちゃんと宿題をやるようになった、といった変化の声が届きます。 学校教育の中心に1本、俳句という芯を通すといいですよね。俳句は各教科、行事など全部ひっくるめた学校教育活動と手を組むことができるから。 理科の観察をして一句、音楽や絵画の鑑賞をして一句詠めるし、家庭科の調理なんて季語の宝庫。それに運動会、遠足はそのものが季語。そういう目で周りを見たら、子どもたちは「俳句のタネの森の中に住んでいる」「俳句のタネの海を泳いでいる」と思うようになる。なんて豊かな場所に自分たちはいるんだろうと気づいた子どもの心は、どんどん豊かになっていくはずです。と答えています。 保育園での活動も日頃と全く違うものではなくいつもの生活や活動の延長としてとらえ、大きなインパクトではなく、アクセントとして行事を行っています。そういった中でも山に出かけたり、畑に行くことは頻繁であり、園庭でも部屋の中でも植物や昆虫を観察したり、実験遊びをしたりと言葉を引き出す環境があります。そういった環境において、どういった言葉をかけるか、いかに言葉を引き出していくか、共鳴、共感する際にどんな言葉をかけるかで、子どもの感性や言葉に対する成長や学びにつながっていきます。さらに子どもの声を受けてどう応答するか、どう共鳴するか、共感するか。共同体やコミュニティを作るかにつながってきます。 先日の粗食の日の一コマです。呉汁を作りました。においや中に入るグザイを見ての言葉、味見をしての言葉、それぞれの言葉を拾って復唱して、みんなで共有する。共感を得る言葉や意見も出ます。そこで折り合いをつける。正解ではなくていいんです。どう感じたかを共有したり、言葉の表現力や語彙力が磨かれます。一人では磨かれません。集団生活で培われることです。