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本能と心

本能と心

2023/01/10

「心とは、人の行為(行動や言葉など)を生み出しているモト」と定義をします。しかし、これは基本的には人間に限ったことです。人間から遠い動物では、事情が変わると言います。たとえば、鳥が飛び立つのを見たとき、私たちは「身の危険を感じたのか」とか「巣に帰るのか」というレベルの動機で納得します。決して「大空を飛びたかったんだろう」とは考えません。鳥の行動を支配しているのは、本能とか具体的な欲求と解釈しているわけです。特別、その動機を曖昧な心というものには求めません。

同じ論理で、親鳥が一生懸命、雛に餌を運ぶのを見ても、それは本能の命じる行動であり、愛情豊かな心のゆえとは思いません。当然、「やる気が出ない」とエサを運ぶのをさぼる親鳥の存在など、想像もしません。

これが人間に変わると、そうではないと言うのです。子どもの世話をする親の原動力が、単なる本能と割り切って考える人は圧倒的な少数派だろうと言うのです。子どもへの愛、つまり愛情あふれる心が、世話をする源だと感じている人も多いでしょう。人問らしい心があるから、人間らしい行動をしているという理屈です。あるいは、責務だと考える人もかなりいるでしょう。子どもをつくった以上、その子どもを育てるのは、親たる人間の責任であるという論理になります。当然、そうした人間にふさわしい行動ができないと、人間らしい心がない、人でなしということになるのです。

人に限った、人としての心がある。本能とは別の心。人の行為を生み出しているモト。本能や欲求を越えたものです。

心と進化 3

2023/01/06

「高間氏は、なぜ心とは史的な産物なのかということをこのように説明しています。

史的な産物?と思われる人がいても、無理もないと言います。私たちは、心は個人個人のものであって、当然、人によって千差万別です。ところが、その一方で、心は親から子へと代々受け継がれてきたものでもあると言うのです。人間がはるか昔から現在まで命をつなぐことができたのには、さまざまな進化が必要で、その進化は「心」にも及んでいるという考えであると高間氏は言うのです。

そもそも心とは何だろうかと、改めて考えてみると、なかなかに難しいです。基本はもちろん、脳の働きです。しかし、私たちは、「人間らしい心」という言い方をごく自然と使っています。また、「あの人には心がない」とか、「心ある振る舞い」という表現に何の不自然さも感じません。私たちはどうやら、私たち自身の内面に心なるものがあり、それが日頃の行動を大きく左右している、あるいは生み出していると思っているようだと言うのです。

そこで、高間氏は、ここでは議論を割愛して、とりあえず「心とは、人の行為(行動や言葉など)を生み出しているモト」としています。人間がある言葉を発する、ある行動をする、ある考えを抱きます。高間氏は、そのモトにあるのが、心であるという定義にします。」

 

ヒトは多様である。ヒトの心も多様です。多様な考え方、捉え方、多様な人間で社会を形成しています。それは環境によって多様です。「史的な産物」どのような環境であったか。ヒトの心の多様も理解できます。まずこのことを押さえた上で、「心とは、ヒトの行為を生み出しているモト」。そう捉えると受け止め方の違い、ヒトとの関わりにおいてのヒントともなるのではと感じています。

感激

2023/01/06

1/5に卒園児の小学6年生2名が遊びに来てくれました。二人で「保育園に行こう」と話しをして、何と近くのスーパーで買い物をして、子ども達にということでお菓子を持ってきてくれました。小学生なりに考えて「ボーロ」と「米菓子」、「チョコ菓子」を持ってきてくれました。何と感動的なことでしょう。自分達で考えて買って来たそうです。おそらくお正月にもらったお年玉を使ってくれたのだと思います。当時の担任、関わりのあった職員と久しぶりの再会にこのようなことが出来る子ども達に成長してくれたことに感激し涙が出てきました。また今度、卒園児に声をかけて一緒にくると言ってくれました。

1月の全体集会

2023/01/05

新しい年を迎え、子ども達は1月の全体集会を行いました。

心と進化 2

2023/01/05

「では、思い通りにならないその理由とは何だろうと問いかけます。まず直感的に分かるのは、心が自分の思い通りにならない理由は、千差万別のはずだと言います。心が思い通りにならない場面が、多様である以上、その理由も多様であるのは当然です。実際、先に挙げた例も、直接的な理由は、「自分意志薄弱だから」「気分屋だから」、あるいは「感情と理性は別だから」などハラバラです。

でも、じつはそうした細々とした理由の背景には、もっと大きな理由が隠れていると言うのです。それは、「心とは史的な産物だから」と言います。ここで、同じ言い方をすれば、私は、「育児とは、史的な産物だから」と考えます。また、育児の根本である、「他人とのかかわりは、史的な産物だから」だと言えます。私的な産物として、ヒトはお互いにかかわり始め、かかわりの中で赤ちゃんが生まれ、かかわりの中で育ててきたと思うのです。その中で、子どもたちは他人とのかかわりを学び、次世代をつないできた気がするのです。」

 

心が思い通りにならない場面が、多様である以上、その理由も多様であるのは当然です。そう言われると半分安心で半分不安もあります。ヒトとのかかわりにおいての背景、状況が多様な中で、どう学んだかと他人が学んできたことには差もあり、そこにも葛藤があるようにも映ります。

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